香川県さぬき市志度に、静かに時間が流れる一棟貸しの宿があります。朝、東から差し込む光が室内をやわらかく照らし、庭には季節の花が咲きます。和室に腰を下ろすと、どこか懐かしく、それでいて日常から少し離れたような感覚に包まれます。
「蒼々さぬき志度」を営む塚本さんが大切にしているのは、瀬戸内の穏やかな空気、地域の魅力、そして日本の丁寧な暮らしを、宿泊者が自然に感じられる時間をつくることです。
大阪から香川へ移住し、初めて宿泊業に挑戦した塚本さん。開業までの道のりは、決して平坦ではありませんでした。それでも今、この場所には国内外から宿泊者が訪れ、「実家のように落ち着く」「日本の暮らしや文化を感じられた」といった声が届いています。
瀬戸内との出会いから始まった、移住と宿づくり
塚本さんが香川に関心を持つきっかけとなったのは、家族で訪れた瀬戸内の島々でした。直島や小豆島、男木島などを巡る中で、瀬戸内の穏やかな海と島の風景に惹かれていきました。さらに、高松の街が海に近く、商店街もあり、島へもすぐに渡れるコンパクトな街であることに魅了されたといいます。
「こんなにいい街はない」そう感じたことが、やがて移住へとつながっていきました。当初は、海の見える場所で宿を営むことも考えていました。しかし、物件探しは簡単ではありませんでした。そんな中で出会ったのが、現在の宿となる建物です。
自分が住む家として考えれば、庭の手入れなど大変な面もあります。けれど、宿として見たとき、この建物には人を惹きつける魅力がありました。「宿としては、いいんじゃないかな。魅力があるんじゃないかな」そう感じたことが、塚本さんの背中を押しました。
庭、和室、朝の光。宿の中で味わう“静かな非日常”


「蒼々さぬき志度」の魅力の一つは、庭と室内がゆるやかにつながる空間です。造園家が意図した美しい眺めを楽しむ部屋、庭に向けて椅子を並べた空間、墨染め色の畳を採用した和室。室内には、日本家屋ならではの落ち着きと、リノベーションによる心地よさが共存しています。
宿泊者からは、庭や和室、朝の光に対する喜びの声が届いています。香港から訪れた若い宿泊者は、観光地をいくつも巡った後、「宿が一番よかった」と話してくれたといいます。
海外からの宿泊者にとっては、日本の丁寧な暮らしや文化を感じられる場所。日本人の宿泊者にとっては、どこか懐かしく、実家のように落ち着く場所です。
塚本さん自身は「非日常感」をテーマにしていたものの、宿泊者の感想から見えてきたのは、派手な特別感ではなく、心がほどけるような安心感でした。
満足度を支えるのは、細やかな配慮と日々の改善
開業後、塚本さんは宿泊者の声を一つひとつ受け止めながら、宿の運営を磨き続けています。たとえば、道が狭くて分かりにくいという声があれば、写真をまとめた案内を送ります。キーボックスの場所が分かりづらければ、より見つけやすい場所への変更を検討します。ドライヤーのコンセントの位置、到着前の案内、周辺情報の伝え方など、細かな不便を見つけては改善を重ねてきました。
宿泊者へのメッセージも、相手に分かりやすく伝わるように何度もブラッシュアップしています。宿泊者には、食事のオプションや周辺情報、到着時の案内などを丁寧に伝えています。
親切な説明、丁寧な返信、細やかな気配り。宿泊前から滞在中まで、安心して過ごせるように整えられた対応が、高い満足度につながっています。
室内には、統一感のある食器やグラス、子ども用の食器、ウォーターサーバー、コーヒー、ウェルカムドリンク、アロマ、スマホ撮影スタンドなども用意されています。
「ちょっと心が踊ってほしい」その想いから、塚本さんは細部まで手をかけています。使うかどうか分からないものでも、あることで誰かの滞在が少し豊かになるなら置いておきたい。そんな積み重ねが、宿全体の心地よさをつくっています。
地域を味わい、地域とつながる宿へ
「蒼々さぬき志度」が目指しているのは、宿泊者が地域の魅力に自然と触れられる場所になることです。宿では、地元のお土産や商品を紹介したり、朝食や刺身盛り合わせなどのオプションを用意したりと、滞在の中で地域を味わえる工夫を重ねています。今後は、農業体験や地域の人とのつながりを生かした体験メニューなども充実させていきたいと考えています。塚本さんの根底には、「地域を応援したい」という想いがあります。香川に移住してきたからこそ、この土地の魅力をもっと知りたい。そして、自分が感じた瀬戸内のよさを、宿泊者にも感じてほしい。
県内にお住まいの方が、県外からの友人や家族を連れて宿泊されるケースも多いそうです。お土産コーナーを一緒に眺めながら、「これ、香川の〇〇なんだよ」と自然に会話が生まれる——その瞬間こそ、榎本さんが大切にしたい場面だといいます。「地元の人にこそ、香川のことを誇りをもって話せる場所になってほしい」。そんな想いが、この宿の棚の一角に込められています。
宿の中でゆっくり過ごす。庭を眺める。近くのうどん店や温泉、美術館、島へ出かける。地元の食を味わう。そんな一つひとつの体験が、旅の記憶になっていきます。
現在は、海外からの宿泊者も増えています。長期滞在の家族やグループ、学生の合宿、企業の小規模研修など、さまざまな使い方の可能性も広がっています。
一棟貸しだからこそ、周りを気にせず過ごせ、暮らすように旅ができます。瀬戸内を巡る拠点としても、宿そのものを楽しむ滞在先としても、「蒼々さぬき志度」は少しずつその存在感を高めています。宿泊業は初めて。価格設定、予約サイトの運用、清掃、庭の手入れ、案内文の作成、設備の整備。すべてが試行錯誤の連続でした。それでも塚本さんは、宿泊者の声を聞きながら、一つひとつ改善を続けています。
「ここに泊まってよかった」その一言のために、小さな気配りを重ねています。
瀬戸内の穏やかな空気と、日本の暮らしの美しさを感じられる一棟貸し宿「蒼々さぬき志度」。
ここには、観光地を巡るだけでは出会えない、魅力があります。


